随筆

   随筆といえば、名文家と呼ばれる人が思い浮かびます。たとえば
丸谷才一、向田邦子、山口瞳、山本夏彦、須賀敦子、白洲正子、諸井薫、幸田文
というような人たちです。
もちろん小説家には随筆を書けばそれは上手な人が多いのは当然ですが、
全然だめと評される人もいますから難しいものです。
そういえば高峰秀子もたいした文章家ですね。
加藤良一という人が書いた「名文の条件」というホームページを見つけました。
「夏目漱石のように、あまり一般的でないむずかしい漢語を用いることで、
ユーモアをいっそう引き立てる手法を使う場合ももちろんあるが、
あくまで一般論としては、誰もが知っていることばが使われているのである。
つまり、材料が同じであれば、それをどう並べるかが文章作りの第一歩であり、
これは『どう』書くかという問題である。
しかし、これだけで『名文』が生まれるはずもない。
その次にくるのは『どう』書かれているかだけでなく『何』が書かれているか、
そして書かれたものが読み手の気持ちにすっと入り込めるかどうかである。
 そのように考えると、『名文』とは、書き手と読み手とのあいだで共有される
イマージュとして形成されるものではないか。
つまりは、作者に『書く力』が必要なのと同じように
読者にもそれなりの『読む力』が備わっていなければ、
『名文』が『名文』として認められないことになると思うが、いかがだろう。
三島由紀夫は、『名文とは何か』と聞かれて
『あなたが名文と思った文章が名文です』と答えたそうだが、
これなどはまさに『名文』が作者と読者の間にあることを物語っていはしないか。」
なるほど。

 名文の条件を私なりに考えてみると次のとおりです。
まずA、B、C、Dと物事の順番に並ばない。ある場合はA、B、D 、Cとなったり、
いきなりDが最初に来て、読者を引き込みます。
そういう意味ではやはり書き出しです。最大の見せ場かもしれません。
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という意外性です。
また文章が長くないこと。歯切れよく訴えるものです。
長い文章も前後を短いものでまとめてあれば、それなりの訴求力が出ます。
過去形で書かれることが多いとは思いますが、
相当頻度で「である」「です」と現在形をいれること。
過ぎたことと思わせない効果もあります。そして最後。
どんでん返しもよいでしょう。どれだけ読者に余韻を残せるかが腕の見せ所です。

こうしてみてくると何のことはない、
「最初から最後まで、無駄なく読者を引き込むことができてこそ名文といえる」
ということになりますか。
到底その条件に合致はしませんが、「私の過去のもの」をお読みください。
この中に原発関係を追加しました(2011年8月23日)
また「2枚の絵」 も追加してあります。(2016年1月19日)
また随筆とは言い難いのですが「ゲイジュツに相応しい書評」を見つけました。
毎日新聞2007年3月18日のコピーなので見にくいでしょうがぜひどうぞ。
ゲイジュツはお金に馴染まないのか、馴染ませないのか。
松原東大教授による「金と芸術」です。

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